〜私とおとぼけの出会い〜 『DEAD STOCK』発売によせて
(文責・ボーン助谷)
久しぶりの『おとぼけ』の新譜(?)発売によせて、私ボーン助谷が何故『おとぼけCats』なるバンドに魂を売り払うハメになったのかを、少々長いが語らせて戴こうと思う。
流行の発信基地、ミナト横浜で中・高校と吹奏楽部(ブラバン)在籍。最初に渡されたフルートは転んで楽器を=への字=にまげ、1年でクビ。次がホルン。が、あまりにもジミなので諸先輩にゴマをすって憧れの谷啓大先生(クレージーキャッツ)と同じトロンボーンに転向する。行進曲はバカスカ吹けるから好きなんだけど、「ナントカの序曲」とかのミョ〜にクラッシックぽいのは大嫌い!結構マジメな部員が多かったので、確実に浮いていた。
大学でビックバンドをやる。在学中に毎夏、東京都足立区花畑にある某スイミングクラブで監視員のバイトに励む。実家横浜とは遠いのでほとんど泊まりっきりで、ほぼ2ヶ月海パン一丁(といっても替え海パンは3枚ある。毎日洗濯キレイ好き)で過ごす。近所の買い物、外食もたいがい海パン1丁。夜になるとバイト仲間とスッパダカで屋外プールを泳ぐのはあたりまえ、バス通りに面した室内プールの電気を消し、一面ガラス張りの壁にスッパダカでヤモリのように張り付きバスの乗客の反応を見るのが楽しかった。当然苦情の電話は入るが、
「夜のプールに人は入れません!事件・事故が起こるといけないので私達監視員がこうして夜も交代で泊まりながら警備をしているのです!見間違いでしょう!」
とツッパネていた。(当時の住民の方々、心よりお詫び申し上げます)ちなみに、「電気クラゲ」のチラシに写っている私のTシャツはバイト先からかっぱらってきたLIFE SAVERのTシャツです。(たびたびスイマセン。でもちゃんと資格は取りました。)
掌のひら、足の裏、海パンの跡以外は全身マッ黒く日焼けし、その姿は我ながら大笑いもので女性がいようが、マジメな他校との打ち合わせだろうが、酒の席だと必ずと言って良いほどウケるので脱いでいた。カラダに自信があった訳ではない。男性自身には特に自信が無いので、ケツ芸に磨きをかけていった。
卒業も間近、たしか1年後輩だった包国(碑文谷パーラッ太)がどういう訳か1年先に卒業してミュージシャンになっており、
『スケ谷先輩、今オモシロいバンドやってんですけど見にこないっすか?』
『どこでやるの?』
『下北ロフトってとこですよ』
『ふ〜ん。じゃ行くよ』
って事で後輩の演奏を聴きに行ったのであった。
そこは私が何回か行った事のあるジャズのお店のような上品な佇まいでは決して無く、コギタねぇコントでよく見る地下の悪人達の溜まり場のような場所であった。
『あのニヒルでクールで男前の包国がこんなところで演奏するのか!あぁ〜悲しい!』
聞けば、【ダディ竹千代と東京おとぼけキャッツ】などというフザケタ!バンド名ではないか!しかも尊敬する【ハナ肇とクレイジーキャッツ】からパクったとしか思えないバンド名!どんな奴らが演奏するのか!トモカク地下へ急行した。
『なんだ!あのデブで天パー黒メガネは!なんだ!あの下駄はいたデブベースは!あれ?あのギター(寺中名人)はこの間仕事にゲストで来た奴だ。女のコーラスも2人いるぞ。キーボード(蛤三太郎)あの高価なミニ・ムーグ持ってんぞ。もしかすると……..』
(ドラムはハチかケケイ)と言っているうちに、ライブが始まり私は狂気乱舞した。こんな楽しい音楽があったのか。終了後、後輩の碑文谷パーラッ太がメンバーに紹介してくれた。
『オレの先輩でトロンボーン吹いてるスケちゃん。今度のデモテープ、スケちゃんと2管でやるよ』
『カネの先輩?どうぞよろしく。』
てな紹介だった。そしてケツ芸はパンツ芸に進化していった。
こんな感じだったと思うが随分前の事なのでメンバーに聞けば、また違った出会いだったのかもしれない。
そのうちデモテープ(なかよし音頭)録音に参加。いつの間にか後輩の碑文谷パーラッ太は【クリエイション】が忙しくなり逃走?知らないうちにオレ1人でホーンセクションになっていた。
ダディの尊敬するトロンボーン芸人「ボン・サイト」大先生にあやかり、ボーン助谷が誕生。ダディいわく
『トロンボーンじゃロックは出来ない!トロンボーン吹けるなら何でも吹けるだろう?三郎みてみろ!ピアノにサックス、フルートまで吹けるんだぞぅ!』てな事で、昔取ったキネヅカ。1人ホーンセクションの出来上がり。
最後に、私は変人では無い。がメンバーは私の事を変人だと言う。納得がいかない。
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