そうる透

(文責・ボーン助谷)

年は5つも下だが、芸歴は7年先輩という微妙な上下関係が今迄続いている。

当時、家が同じ横浜市鶴見区で近所(岸谷と寛政町)なので、Drセット満載の彼の愛車“赤いファミリア5ドア”でよく一緒に行動していた。

一時期神奈川区に住んでいた「怪獣」三郎と3人で動く事も多かったせいで、彼の家で随分とゴチソウになったものである。そんな関係から「京浜鼓笛隊」という摩訶不思議なトリオを組み、何回かおとぼけの前座バンドとして出た事もある。

当時から大掛かりなセットを組んでいて、手が足らないのでセッティング、ヘッド交換をバンドマンの常で手伝ったりしていたので、今でもヘッド交換・ある程度のチューニングが出来るのは彼あってのおかげである

運転中に大音量で好きな曲をかけながら、イントロからエンディングまでハイテンションで各楽器、歌、コーラス、ソロのフレーズを大声で歌いまくっていた。ツァーの場合も同じで、行程の半分は彼が楽器車を運転していた。ヘッドフォンをしていても聞こえて来る。おとぼけの場合、運転手が一番偉いので、誰も文句は言えない。搬入、RH、本番、搬出までそのハイテンションは続き、大して強く無かった酒を飲んでハテルまでそれは続く。しかし朝になると「透ちゃんだという!ギャハハハ!」という第一声で起きていた。低血圧で虚弱な私には羨ましい限りであった。

知り合った時から音楽に対して、お金と労力を惜しまなかった。色々器材を買いあさったり、千葉県八千代市にある(当時モニターをしていた)Pearlの工場に頻繁に出かけて行っては新製品の開発もし、商品になった物もあった。何度か金魚のフンのように同行し、私もPearlのフルートを戴くという漁父の利?にありついた。今でも変わらないが社交性も抜群で、上からは可愛がられ、下からは慕われる天性の明るさを持っていた。

体育会系のノリも持ち合わせており、当たり前の事と言っては何だが、服装には厳しい一面も持っていた。「人前に出るんだからさぁ」と言って随分注意されたものである。無頓着第1位の三郎に

「ビーサン履いてくんなよぉ。少しは考えてよぉ。」

「うるせぇなぁ。Daddyだって履いてんじゃんかよぉ。」

「Daddyはちゃんとした(?)の履いてんじゃんよぉ。ビーサンはダメ!」

「判ったよぉ。履かなきゃいいんだろ!履かなきゃ!」

「三郎!人は足元から見るんだから。足元から。」

「うるせぇなぁ!もうビーサン履かねぇよぉ!」

「判りゃいいんだよ!チャンとしろよなぁ!」

ちなみに三郎も5つ年上である。透に隠れて私も、自宅用は愛用のビーサンは棄て雪駄に変えた。

おとぼけで昔、野球チーム「江戸幕府」を持っていて、運動神経バツグンの透も当然参加していた。地元の【横浜大洋ホエールズ】ファンを自認してはいたが、ガキの頃からタイコ一筋の彼はどうも野球のルールを把握していなかったようだ。

ある試合でレフトオーバーの痛烈なヒットを打った時

「ダディ!どうすればいいのぉー!」

「あちゃぁ!お箸持つ方に走れー!」

「オレ、どっちでも使えんだけど?」

「そっか?右だ!右!」

ゆうゆう2塁打が1塁止まり。守備でもボール捕るのは巧いのだが、またまた「ダディ!どーすんのー!」

「スケ谷の所へ投げろー!」

「OK!」

矢のような豪速球がオレの所に飛んで来る。ホントの話である。本人は楽しそうに野球をしていた。が、彼以外は不健康極まりない集団のチーム「江戸幕府」は、勝つ事は滅多になかった。透の名誉の為にも再度書くが、運動神経はバツグンである。